〽雪のあしたの 居続け誘う
待乳の鐘や かもめ鳴く
絶えて久しき 舵の音
流れ流れて 行く末は
きみが縁(えにし)のもやい舟
古曲です。
吉原の遊女が客に泊まっていくよう誘う場面です。
背景には待乳山聖天の鐘と鴎の鳴く声…そんなしどけない雰囲気は中々出せず、お稽古では苦戦しています。
さて今回の気になる詞は「あした」です。
この曲を教わるまで知らなかったのですが、古語における「あした」とは「明日(今日からみた次の日)」ではなく、「朝(一日のうちの早い時間)」という意味なのですね。漢字では「元旦」の「旦」と書きます。漢字の成り立ちとしては、地平から太陽(日)が昇る形とのこと。なるほどそれはいかにも「朝」だなと思いました。
歌川国貞 「暮のあしたの雪の乗合」
「明日」と「朝」は、不思議なことに他の言語でも同じ関係にあるようです。ドイツ語では名詞Morgenは朝 副詞morgenはあした(に)という意味で、英語のtomorrowの”morrow”は明日という意味があるそうです。
などと「明日」と「朝」について考えているうちに、そもそも一日はいつから始まるのか?という疑問がわいてきました。現代の法律上では一日の始まりは0時でしょうが、我々庶民の心情としては日の出だろうと思います。
ところが、古代においては日没が一日の始まりとされていたという説があります。それは日本に限らないことで、イスラムやユダヤの暦では日の入りを一日の始まりとしています。その理由は諸説あるそうですが、旧約聖書の「創世記」において天地創造の各日には「夕があり、また朝となった」とあることが根拠の一つとされているようです。
また一年という単位で考えると、古代においては冬至を一年の始まりとすることが一般的でした。冬至は太陽の力が最も弱くなる時であり、太陽が象徴する生命的エネルギーが一旦滅することで新たな命が芽吹く、つまり新しい「一年」が始まると考えられていたのです。その論でいくと、太陽の光が没する「日没」が、新たな「一日」の始まりであるというのも解せる気がします。
はじめに「死(滅)」があってしかるのちに「生(始)」が続くとは、なんだかとても哲学的ですね。小唄の話のはずが、いつのまにか壮大な迷路にはまってしまいました。
そもそも私がちっとも上達しないのは、そんな屁理屈ばかり言っているからかもしれません。音曲の良さを素直に受け取って、感じたままに唄うことが大事ですね。
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